2007年8月15日水曜日

涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏はなぜあんなに完コピなのか

涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏は、なぜあんなに完コピなのでしょうか。このことについて、敢えて二つ問題点をあげてみたいと思います。

まず一つ目ですが、そもそも完コピなるものは実は不可能なのにもかかわらず、それをライブパフォーマンスで達成することに無理があります。そのため、CD等に録音された演奏と少しでも異った音が耳に入ると、その作品を丹念に聴いた人ほど違和感を抱く、もっと言ってしまえば、ズッコケてしまうのではないでしょうか。

たとえば、涼宮ハルヒの激奏の「Gok knows...」の演奏開始から16秒後にいきなりギターの方がミスしていますが(このギタリストの方は、イントロ等に出てくる開放弦をからめたフレーズがあまり得意ではないようですね)、この部分で「アレ?」と思った方がいらっしゃると思います。

このようなミスは、技術があると言われているミュージシャンにもよくあります。最近私は、iTunes StoreでDream Theaterの「Live At Budokan」の「Pull Me Under」を購入したのですが、3分38秒あたりのギターの高速フレーズの着地が失敗していたりします。大御所のミスも指摘しておきましょうか。Rainbowに「Difficult to Cure」という作品があります。この中の「Spotlight Kid」には、中盤にギターとキーボードのユニゾンのフレーズがあるのですが、2分40秒あたりで、どちらかが半音間違えています。

以上の例は、全て、いわゆる「決め」のフレーズでミスをしたものですが、これは決して偶然ではありません。そしてこのことは、人間は「決め」のフレーズでミスをしやすいということではなく、そこでミスをすると、聴き手は簡単に気づいてしまうということを意味しています。

ライブパフォーマンスで完コピをしようとするというのは、全てのフレーズを「決め」にすることと同じです。演奏する側は自ら破綻しようとするのに等しく、そして、それを聴く側にも「答えあわせ」を強いるに等しい行為で、これらの行為は、演奏を楽しむということから離れてしまうものだと私は考えています。

二つ目ですが、これはあらかじめお断りしておくと、かなりこじつけかもしれません。何故、涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏が完コピを目指したものにしようとなされたのか。その動機の部分に、完コピでなければならないという意識があったのではないか。そうだとするなら、これは問題ではないでしょうか。

同じような問題は、音楽以外でも起こり得ます。つい最近では、天元突破グレンラガンの第四話の作画について騒ぎがおこったり、原作のある作品をアニメ化するとよく耳にする「原作と違う」といったような意見がありますが、これらも、その原因として考えられるのは、「既に作りあげられたイメージを壊さないでほしい」という受け手側の要求です。

たしかに、受け手側には、自らの愛するものを守りたい気持ちはあるでしょう。それ自体は悪い感情ではないと思うのですが、それを声高に作り手側に要求するのは正しい行為とは思えませんし、ましてや、そういうものを作り手側が先取りしてセルフコピーをしてしまうのは、自らの手でクリエイティビティを失わせようとする行為であり、クリエイターとして一番やってはならないことだと思うのです。

ここからは音楽に話を限定しますが、1990年代中盤の邦楽バブルからファイル交換時代を経て現在の音楽配信時代まで、CDやMDも含め、デジタルでファイル化された音楽の氾濫により、実演の占める地位が相対的にかなり低下したと私は考えています。それは、実際に演奏を録音した当の本人でさえも不可能な「原典」の忠実な再現こそが最高の価値を有するものとされ、そのオルタードな存在としての、別な「オリジナル」としての実演が排除されるべきまがいものとされたということでもあります。

音楽の作り手と受け手の全てがこのような流れの中にあるわけではありませんが、涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏を見ていると、確実に原典至上主義的なものが感じられ、音楽以外にも同じような現象が見られる現状に不安を覚えたので、このようなエントリーを書きました。

2007年8月13日月曜日

英語学習の憂鬱

極端なことを言うようですが、私は、大学に入るまでは、英語教育は必要ないと考えています。 理由は二つあります。

まず一つ目ですが、大学へ行かない人には、そもそも英語学習は必要ないと考えているからです。日本国内に住んでいるかぎりは、英語能力は、全く必要ないと言ってしまってもかまわないでしょう。それにもかかわらずほとんどの人が、高校までで、一通り学習することに、どれほどの意味があるのでしょうか。

大学へ入ったとしても、かならずしも全ての学生が英語を必要とするわけではないと思います。例えば法学部ならドイツ語やフランス語の方がより必要とされることもあるでしょう。

当然ながら、大学入試から英語は削除するべきです。学生たちの論理的文章作成力や基本的な歴史の知識が十分であるのならまだしも、決してそうだとは言い切れない現状では、それらにより注力した方がよりスムーズに高等教育へ入っていけるのではないでしょうか。goの過去形を知らなくても困りませんが、近代立憲主義を知らないのは、やはり、実害があると思うのです。

次に二つ目として、英語を始めとして語学は、中高の6年間もかけて学習するよりも、短期間に集中して学習した方が良いと私は考えており、そのためには大学から始めるのが最も無理がありません。アルファベットを覚えることから始めて、仮定法を学習するまでに4年も5年もかけるのはどう考えても時間がかかり過ぎです。

この考えに対しては、個々の文法事項をじっくりと学習したほうが、よりよく文法を理解できるのではないかとの批判もあるかもしれません。たしかに、ネイティブではない私たちには、ただやみくもに文法を暗記するだけでなく、要所要所で、例えば不定詞と動名詞の使い分けを、その根本のルールを知り、それを使って理解することが必要です。しかし、そのルールを知って、納得するためには、一通りの文法と例文が頭に入っていることが必要なので、しっかりと理解しながらゆっくり学ぶというのは、ある意味で矛盾しています。

そうなると、無茶でも一気に文法と例文を覚えて、並行して沢山の英文を読むといった、それこそ修行のような行為が必要になりますが、それをこなすには、ある程度成熟した精神と、明確な目的意識が必要ではないでしょうか。このように考えているからこそ、英語学習をするのなら大学から、と私は主張しているのです。

もちろん、これまで書いてきたことに対して、次のような批判もあるでしょう。すなわち、たとえ必要なくとも、あるいは学習として非効率であっても、まがりなりにも6年間英語を学習するということが、日本人全体の英語に対するリテラシーのようなものを担保してきたのであり、それを全くなくしてしまうのは、日本国民の国際競争力を危険にさらしてしまう、といったような。

こういうことは、それこそゆとり教育で受験学力が下がったのと同じく、当然に予想される出来事でしょう。それでも英語学習にまわすリソースを他にまわすことに意味があるのです。それが上で書いた、他人を説得させる文章力や私たちの住む社会についての知識を身につけることなのです。フォーサイト誌「シリコンバレーからの手紙」の第130回で梅田望夫氏が、

日本語圏に生きる私たち一人ひとりが、日本語圏のネット空間を知的に豊穣なものにしていく決意を持つかどうか


が大事だと書かれています。そのためには、日本語圏での、主に文章を介した知の蓄積が必要なのです。国際的な競争力や情報収集力はその後でも十分です。国内の情報のレベルを上げればこそ、それを海外へ伝えたり、海外の人たちがそれを学ぶことに意義があるのです。