2007年8月13日月曜日

英語学習の憂鬱

極端なことを言うようですが、私は、大学に入るまでは、英語教育は必要ないと考えています。 理由は二つあります。

まず一つ目ですが、大学へ行かない人には、そもそも英語学習は必要ないと考えているからです。日本国内に住んでいるかぎりは、英語能力は、全く必要ないと言ってしまってもかまわないでしょう。それにもかかわらずほとんどの人が、高校までで、一通り学習することに、どれほどの意味があるのでしょうか。

大学へ入ったとしても、かならずしも全ての学生が英語を必要とするわけではないと思います。例えば法学部ならドイツ語やフランス語の方がより必要とされることもあるでしょう。

当然ながら、大学入試から英語は削除するべきです。学生たちの論理的文章作成力や基本的な歴史の知識が十分であるのならまだしも、決してそうだとは言い切れない現状では、それらにより注力した方がよりスムーズに高等教育へ入っていけるのではないでしょうか。goの過去形を知らなくても困りませんが、近代立憲主義を知らないのは、やはり、実害があると思うのです。

次に二つ目として、英語を始めとして語学は、中高の6年間もかけて学習するよりも、短期間に集中して学習した方が良いと私は考えており、そのためには大学から始めるのが最も無理がありません。アルファベットを覚えることから始めて、仮定法を学習するまでに4年も5年もかけるのはどう考えても時間がかかり過ぎです。

この考えに対しては、個々の文法事項をじっくりと学習したほうが、よりよく文法を理解できるのではないかとの批判もあるかもしれません。たしかに、ネイティブではない私たちには、ただやみくもに文法を暗記するだけでなく、要所要所で、例えば不定詞と動名詞の使い分けを、その根本のルールを知り、それを使って理解することが必要です。しかし、そのルールを知って、納得するためには、一通りの文法と例文が頭に入っていることが必要なので、しっかりと理解しながらゆっくり学ぶというのは、ある意味で矛盾しています。

そうなると、無茶でも一気に文法と例文を覚えて、並行して沢山の英文を読むといった、それこそ修行のような行為が必要になりますが、それをこなすには、ある程度成熟した精神と、明確な目的意識が必要ではないでしょうか。このように考えているからこそ、英語学習をするのなら大学から、と私は主張しているのです。

もちろん、これまで書いてきたことに対して、次のような批判もあるでしょう。すなわち、たとえ必要なくとも、あるいは学習として非効率であっても、まがりなりにも6年間英語を学習するということが、日本人全体の英語に対するリテラシーのようなものを担保してきたのであり、それを全くなくしてしまうのは、日本国民の国際競争力を危険にさらしてしまう、といったような。

こういうことは、それこそゆとり教育で受験学力が下がったのと同じく、当然に予想される出来事でしょう。それでも英語学習にまわすリソースを他にまわすことに意味があるのです。それが上で書いた、他人を説得させる文章力や私たちの住む社会についての知識を身につけることなのです。フォーサイト誌「シリコンバレーからの手紙」の第130回で梅田望夫氏が、

日本語圏に生きる私たち一人ひとりが、日本語圏のネット空間を知的に豊穣なものにしていく決意を持つかどうか


が大事だと書かれています。そのためには、日本語圏での、主に文章を介した知の蓄積が必要なのです。国際的な競争力や情報収集力はその後でも十分です。国内の情報のレベルを上げればこそ、それを海外へ伝えたり、海外の人たちがそれを学ぶことに意義があるのです。