2007年11月24日土曜日

「豆腐を豆腐屋で買う」ことを意味のあるものにするために

文化系トークラジオLifeのトークイベントでの内容でちょっと気になったところ(Part4)があったので、少し書いてみたいと思います。

私が気になったのは、森山裕之さんの「豆腐を豆腐屋で買う」という発言。詳しくは当該Podcastを聴いていただきたいのですが、森山さんは、「小文字の政治」を指向していらっしゃるようです。すなわち、大袈裟な政治運動等をしなくても、身近なところから社会を変えていけるだろうとのお考え。

それに賛同するかたちで、柳瀬博一さんが、民主政のプロセスがうまく働いたことがない日本では、消費ドリブンでしか社会は変えられないと、ヤマト運輸の成功例を挙げていらっしゃいました。

私は、この消費ドリブンで社会を変えていくことというのが、素朴な意味で使われているのだとしたら、あまり賢明なことだとは思いません。

斎藤哲也さんは、「豆腐を豆腐屋で買う」ことには、環境運動に通じるものがあるとおっしゃっていました。さらにつっこんだ発言はされませんでしたが、この斎藤さんの発言の含意は、大変意地悪な考え方をすれば、「身の回りのことについて少しだけ、しかも自分に大した不都合もないように行動することで、政治的な活動をした気になって溜飲を下げて、本質的な問題にはタッチしないための逃げ口上になっている場合がある」ということではないでしょうか。

たしかに、消費ドリブンで社会を変えることは全くあり得ないとは言いません。しかし、そこには権力への視線が欠けてはいないでしょうか。庶民からの消費行動を通じた突き上げが一定のパワーになっていったとしても、それが現実化する直前でちゃぶ台をひっくり返すことができるのが権力であり、政治の力だと私は考えています。

柳瀬博一さんは、消費ドリブンで社会が変っていくことは、ヤマト運輸の例には限られず、たとえば中国でも同様なことが起きていると発言され、それにはcharlieも同意されていましたが、未来について考えるのであれば、高度に成長中の中国と、ある種の停滞期にある日本を同列に語ることはできないのではないでしょうか。変革の蓋然性の高さが、中国と日本では異なると思われてなりません。そうだとすると、消費ドリブンな政治変革のプロセスを、アジアの根本原理になり得るとするのは単純に過ぎると思います。

もちろん、私も消費が一種の投票行動であり、「賢い消費者」が結集すれば、社会的なインパクトを行使できるということには賛成します。しかし、ここぞというときに、既存の権力、政治の力によって潰されてしまうことがある以上、「豆腐を豆腐屋で買うこと」を政治的なインパクトのあるものにするためには、やはり「大文字の政治」に関与せざるを得ないのです。

私自身は、およそこの世の全ての出来事は政治的色彩を帯びていると考えていますが、この考えに反対の方もいらっしゃるでしょうし、そうではなくとも、政治になんて無関心な方もいらっしゃるでしょう。無関心でいる自由を侵すことはできませんが、しかし、政治的な活動として「豆腐を豆腐屋で買う」ことを挙げることには、やはり反対の意を表したくなります。先に挙げましたように、単なる逃げ口上に思えてならないからです。

「豆腐を豆腐屋で買う」ことを意味のあるものにするのであれば、政治的な活動は欠かせません。「小文字の政治」は「大文字の政治」があってはじめて、意味のあるものになるのです。

余談:

私の消費者としての行動指針の一つは、某運輸のサービスは極力使わない、というものです。少くとも私の経験上、よろしくないサービスしか提供されたことがないからです。

2007年11月4日日曜日

民主党の小沢代表が辞意を表明

小沢氏の会見の要旨。時間のある方は、直接映像をご覧になることをおすすめします(民主党の当該動画ページビデオニュース・ドットコムのプレスクラブ)。

福田首相から持ちかけられた連立構想をめぐり、政治的混乱を招いたことについて、党の内外に対するけじめとして辞職願いを提出した。

1.11/2会談にて、福田総理は、自民民主両党の重要政策実現のため、小沢氏に連立政権樹立を要請するとともに、安全保障政策について、重大な政策転換を決断した。

(政策転換の内容)
1-1: 国際平和協力に対する自衛隊の海外派遣は、国連安保理/総会の決議を根拠とする国連の活動に限定(=特定の国の軍事作戦に参加しない)。

1-2: 連立政権が樹立するなら、新テロ特措法案の成立にはこだわらない。

これらの福田氏の確約事項は、これまでのわが国の無原則な安保政策を根本から転換し、国際平和協力の原則を確立するものであるだけに、それだけで政策協議を開始するに値すると判断した。

2.参議院選挙で公約した、年金改革、子育て支援、農業再生等の法案が成立しないので、政策協力をする中で、これらを現実に実行することが可能になるとの思いがあった。

3.今の民主党では、次の総選挙での勝利は厳しい情勢にあるが、連立により政権の一翼を担い公約を実行すれば、政権運営の実績を国民に示すことで、国民の理解を得られ、それは民主党政権を実現する近道であると判断した。これは、かねてより希望してきた二大政党制の実現を早めるものだと考えている。

4.以上に基づき、2日夜の党役員会にて、福田総理の方針を説明し、政策協議を始めるべきではないかと提案したが、認められず、それは自分への不信任に等しいと考え、党首としてけじめをつける必要があると判断した。

(党首会談に関する報道について)
党首会談をよびかけたのは自分自身であるとか、大連立を持ちかけたのは自分自身であるとかいう報道は全くの事実無根。党首会談および会談にいたるまでの経緯と内容について、自分はもちろん、秘書等も、どの報道機関からも取材を受けたことはなく、その申し入れもなかった。


過去においてはともかく、現時点での小沢氏は、リアリストであるように思います。

国民の生活重視の公約をかかげて参議院選挙で勝利した > 公約を実現させて実績を作り、総選挙でも勝利する > 民主党政権誕生

という、とてもわかりやすいロードマップを頭のなかに描いていたのではないでしょうか。そして、それが民主党の役員達の理解を得られなかった。

小沢氏の会見を見て、率直に思ったことは、「なぜ、民主党の役員達は、自民党との政策協議を拒否したのか。」ということです。新聞の「関係者」がうんぬんではなく、役員の方々にきいてみたいものです。

声優の富坂晶さんが引退されるそうです

声優の富坂晶さんが、引退されるそうです。

私にとっては、富坂さんといえば、何といってもRed Gardenのケイト=アシュレイでした。Red Garden本編はもちろんのこと、OVAのDead Girlsも大好きで、よく見ておりましたところで知ったこのニュース。実は、先日Red Gardenのメインキャストのみなさんのサイン入り台本を、とあるキャンペーンでゲットしたのですが、これはがぜん家宝度が上がりました。

Wikipediaによりますと、富坂さんは沖縄のご出身だそうです。沖縄というと、以前、社会学者の宮台真司氏が、「沖縄では離婚率が高いが、それは帰るべき家と、それを包含する門中という共同体があるからだ」というような趣旨のことを仰っていたことが思い出されます。東京ー地方という二項対立図式には辟易していますが、帰るべきふるさとがあることは、大変素晴しいことだと思います。

それにしましても、声優をはじめ、アニメの監督やアニメーター、はたまたミュージシャン等のクリエイターというのは、作品を後世に残すことができてうらやましいですね。それにより、ずっと先まで人々を魅了することができるのですから。

作品を後世に残すという観点からは、デジタルデーターとして残すよりも、なんらかのメディアに化体させて残すことの方が優れているように思います。メディアに残した方が、時間が経ち、人々の興味をそれほど惹きつけないような状況下では、物質としてアクセス可能なことは、デジタルデーターとしてのみ存在する場合と比較して、より大きなメリットであるのではないでしょうか。となると、そのような行為を勧奨するインセンティブは必要になるわけですが、それって、現在、文化庁で審議されているようなことで対応できるのでしょうか。

ちょっと疑問ですね。

2007年8月15日水曜日

涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏はなぜあんなに完コピなのか

涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏は、なぜあんなに完コピなのでしょうか。このことについて、敢えて二つ問題点をあげてみたいと思います。

まず一つ目ですが、そもそも完コピなるものは実は不可能なのにもかかわらず、それをライブパフォーマンスで達成することに無理があります。そのため、CD等に録音された演奏と少しでも異った音が耳に入ると、その作品を丹念に聴いた人ほど違和感を抱く、もっと言ってしまえば、ズッコケてしまうのではないでしょうか。

たとえば、涼宮ハルヒの激奏の「Gok knows...」の演奏開始から16秒後にいきなりギターの方がミスしていますが(このギタリストの方は、イントロ等に出てくる開放弦をからめたフレーズがあまり得意ではないようですね)、この部分で「アレ?」と思った方がいらっしゃると思います。

このようなミスは、技術があると言われているミュージシャンにもよくあります。最近私は、iTunes StoreでDream Theaterの「Live At Budokan」の「Pull Me Under」を購入したのですが、3分38秒あたりのギターの高速フレーズの着地が失敗していたりします。大御所のミスも指摘しておきましょうか。Rainbowに「Difficult to Cure」という作品があります。この中の「Spotlight Kid」には、中盤にギターとキーボードのユニゾンのフレーズがあるのですが、2分40秒あたりで、どちらかが半音間違えています。

以上の例は、全て、いわゆる「決め」のフレーズでミスをしたものですが、これは決して偶然ではありません。そしてこのことは、人間は「決め」のフレーズでミスをしやすいということではなく、そこでミスをすると、聴き手は簡単に気づいてしまうということを意味しています。

ライブパフォーマンスで完コピをしようとするというのは、全てのフレーズを「決め」にすることと同じです。演奏する側は自ら破綻しようとするのに等しく、そして、それを聴く側にも「答えあわせ」を強いるに等しい行為で、これらの行為は、演奏を楽しむということから離れてしまうものだと私は考えています。

二つ目ですが、これはあらかじめお断りしておくと、かなりこじつけかもしれません。何故、涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏が完コピを目指したものにしようとなされたのか。その動機の部分に、完コピでなければならないという意識があったのではないか。そうだとするなら、これは問題ではないでしょうか。

同じような問題は、音楽以外でも起こり得ます。つい最近では、天元突破グレンラガンの第四話の作画について騒ぎがおこったり、原作のある作品をアニメ化するとよく耳にする「原作と違う」といったような意見がありますが、これらも、その原因として考えられるのは、「既に作りあげられたイメージを壊さないでほしい」という受け手側の要求です。

たしかに、受け手側には、自らの愛するものを守りたい気持ちはあるでしょう。それ自体は悪い感情ではないと思うのですが、それを声高に作り手側に要求するのは正しい行為とは思えませんし、ましてや、そういうものを作り手側が先取りしてセルフコピーをしてしまうのは、自らの手でクリエイティビティを失わせようとする行為であり、クリエイターとして一番やってはならないことだと思うのです。

ここからは音楽に話を限定しますが、1990年代中盤の邦楽バブルからファイル交換時代を経て現在の音楽配信時代まで、CDやMDも含め、デジタルでファイル化された音楽の氾濫により、実演の占める地位が相対的にかなり低下したと私は考えています。それは、実際に演奏を録音した当の本人でさえも不可能な「原典」の忠実な再現こそが最高の価値を有するものとされ、そのオルタードな存在としての、別な「オリジナル」としての実演が排除されるべきまがいものとされたということでもあります。

音楽の作り手と受け手の全てがこのような流れの中にあるわけではありませんが、涼宮ハルヒの激奏の「God knows...」の演奏を見ていると、確実に原典至上主義的なものが感じられ、音楽以外にも同じような現象が見られる現状に不安を覚えたので、このようなエントリーを書きました。

2007年8月13日月曜日

英語学習の憂鬱

極端なことを言うようですが、私は、大学に入るまでは、英語教育は必要ないと考えています。 理由は二つあります。

まず一つ目ですが、大学へ行かない人には、そもそも英語学習は必要ないと考えているからです。日本国内に住んでいるかぎりは、英語能力は、全く必要ないと言ってしまってもかまわないでしょう。それにもかかわらずほとんどの人が、高校までで、一通り学習することに、どれほどの意味があるのでしょうか。

大学へ入ったとしても、かならずしも全ての学生が英語を必要とするわけではないと思います。例えば法学部ならドイツ語やフランス語の方がより必要とされることもあるでしょう。

当然ながら、大学入試から英語は削除するべきです。学生たちの論理的文章作成力や基本的な歴史の知識が十分であるのならまだしも、決してそうだとは言い切れない現状では、それらにより注力した方がよりスムーズに高等教育へ入っていけるのではないでしょうか。goの過去形を知らなくても困りませんが、近代立憲主義を知らないのは、やはり、実害があると思うのです。

次に二つ目として、英語を始めとして語学は、中高の6年間もかけて学習するよりも、短期間に集中して学習した方が良いと私は考えており、そのためには大学から始めるのが最も無理がありません。アルファベットを覚えることから始めて、仮定法を学習するまでに4年も5年もかけるのはどう考えても時間がかかり過ぎです。

この考えに対しては、個々の文法事項をじっくりと学習したほうが、よりよく文法を理解できるのではないかとの批判もあるかもしれません。たしかに、ネイティブではない私たちには、ただやみくもに文法を暗記するだけでなく、要所要所で、例えば不定詞と動名詞の使い分けを、その根本のルールを知り、それを使って理解することが必要です。しかし、そのルールを知って、納得するためには、一通りの文法と例文が頭に入っていることが必要なので、しっかりと理解しながらゆっくり学ぶというのは、ある意味で矛盾しています。

そうなると、無茶でも一気に文法と例文を覚えて、並行して沢山の英文を読むといった、それこそ修行のような行為が必要になりますが、それをこなすには、ある程度成熟した精神と、明確な目的意識が必要ではないでしょうか。このように考えているからこそ、英語学習をするのなら大学から、と私は主張しているのです。

もちろん、これまで書いてきたことに対して、次のような批判もあるでしょう。すなわち、たとえ必要なくとも、あるいは学習として非効率であっても、まがりなりにも6年間英語を学習するということが、日本人全体の英語に対するリテラシーのようなものを担保してきたのであり、それを全くなくしてしまうのは、日本国民の国際競争力を危険にさらしてしまう、といったような。

こういうことは、それこそゆとり教育で受験学力が下がったのと同じく、当然に予想される出来事でしょう。それでも英語学習にまわすリソースを他にまわすことに意味があるのです。それが上で書いた、他人を説得させる文章力や私たちの住む社会についての知識を身につけることなのです。フォーサイト誌「シリコンバレーからの手紙」の第130回で梅田望夫氏が、

日本語圏に生きる私たち一人ひとりが、日本語圏のネット空間を知的に豊穣なものにしていく決意を持つかどうか


が大事だと書かれています。そのためには、日本語圏での、主に文章を介した知の蓄積が必要なのです。国際的な競争力や情報収集力はその後でも十分です。国内の情報のレベルを上げればこそ、それを海外へ伝えたり、海外の人たちがそれを学ぶことに意義があるのです。

2007年6月16日土曜日

ビリービーンが2014年までA'sとの契約を延長

2007年5月19日付けの当ブログのエントリー「ビリービーンはA'sのGM職を辞したのですか。」の中で、私は、

ビリービーンの肩書が、「アスレチックスの元GM」となっていましたが、彼はいつ同球団のGM職を辞したのでしょうか。


と書きましたが、やはりビーンはA'sのGM職を辞してはいないようです。

日本時間2007年6月14日付けのMAJOR.JPのニュースで、ビーンとA'sとの契約延長が報じられました。念の為に、A'sの公式サイトも確認してみたところ、その旨のプレスリリースが出されていました。「契約延長」というのは、現在も契約しており、それを継続するという意味に解するのが相当でしょうから、やはり、朝日新聞が報じた、「元GM」というビーンの肩書は誤りだったことになります。

さて、MLBの各チームの公式サイトには、MLB.comの記者が書いた記事(こちらはチームの公式なステイトメントではありません)も掲載されているのですが、今回のビーンの契約延長に関する記事の中に、

Beane has frequently and openly discussed his interest in a career outside of baseball, and he's grown increasingly fascinated by the world of soccer.

(ksasaki試訳)ビーンはこれまで、野球以外の仕事への興味を頻繁に公言し、サッカーの世界にますます魅了されるようになっている。

とありました。不勉強な私は、ビーンがサッカービジネスに興味を持っているということは知らなかったので驚きましたが、彼のサッカー界での活躍を見てみたい気もします。

もちろん、A'sのGMとしては、ワールドシリーズ制覇が未達の目標として存在しているのでしょうが、いわゆるマネーボール理論(セイバーメトリクス)は、よく言われているように、長いシーズンをトータルに考えると非常に有効ではあるものの、短期決戦を制するようなチーム力をつけるのは難しいようなので、過去7シーズン中5度もポストシーズンに進出しつつも一度もワールドシリーズ制覇を成し得ないことについて、ビーンに諦観のようなものがあり、その結果として興味がサッカーへ向いているのではないか、そんなことも考えてしまいます。

いずれにしても、解任されないかぎりは、2014年までは、ビーンのA'sが見られそうです。

2007年6月4日月曜日

マル激トーク・オン・ディマンド第322回「プロ野球の凋落にみる日本問題の深層」について

マル激トーク・オン・ディマンド第322回は、プロ野球の凋落にみる日本問題の深層というタイトルで、日本のプロスポーツの問題点を議論するものでした。

ゲストは、スポーツビジネスに詳しい、帝京大学教授の大坪正則という方でしたが、氏の発言の中に、米メジャーリーグの、徹底して合理的なフランチャイズ戦略を知ることができるものがありました。私が簡単に示しますと、

1. ある一定数以上の人口のある地域内でのみ独占営業権を1チームに与える
2. 大都市に関しては2チームの存在を認めるが、
a.各々のチームは別々のリーグ(アメリカンリーグとナショナルリーグ)に所属させる
b.片方のチームがホームで試合を主催するときは、もうひとつのチームはアウェーに遠征させる

なるほど、たしかに合理的な配置のしかたですね。まず、そもそも集客が見込めないところにはチームを置かない(1)。しかし、2チーム分の集客をアテにできるほどの、極めて人口の多い大都市に関しては例外を認める(2)。ただし、同一都市で同時に2試合を開催することのないようにする(a,b)。a.に関しては、必ずしもb.の論理的前提だとは思いませんが、b.を徹底する大きな助けにはなるでしょう。

折角なので、2007年6月2日の試合日程を、上の2(a,b)にあてはめてみましょう。

番組中で、同一地区内に存在する2球団の組み合わせとされたのが、

(ニューヨークヤンキース, ニューヨークメッツ)
(シカゴホワイトソックス, シカゴカブス)
(ロサンゼルスエンゼルス, ロサンゼルスドジャース)
(オークランドアスレチックス, サンフランシスコジャイアンツ)

でしたが、ここに挙げた球団は、括弧内の前者のチームがアメリカンリーグ所属で、後者はナショナルリーグ所属になっており、a.のルールは守られています。

次に、試合開催地ですが、

ニューヨーク : ヤンキース@ボストン, メッツ@ニューヨーク
シカゴ : ホワイトソックス@トロント, カブス@シカゴ
ロサンゼルス : エンゼルス@ロサンゼルス, ドジャース@ピッツバーグ
サンフランシスコ : アスレチックス@オークランド, ジャイアンツ@フィラデルフィア

のようになっており、見事にホームとアウェーにわかれています。しっかりと管理されている感じが見えてきます。(注1)

一方、日本のプロ野球はあまりうまくチーム配置されているようには思えません。マル激内で、大坪氏はフランチャイズの範囲を、「2時間で球場に行ける距離」とされていましたが、東京都内に住んでいる人を例に考えてみると、東京ドーム、神宮球場はもちろん、グッドウィルドーム、横浜スタジアム、千葉マリンスタジアムあたりも2時間以内でアクセス可能でしょう。東京を中心とした、埼玉、神奈川、千葉圏は、相当多数の人口を抱える地域ですが、それにしても球団数が多過ぎではないでしょうか。

ソフトバンクや日本ハムは、地域密着型球団経営の成功例として挙げられることもあるようですが、地域に密着した経営手法を採ったからではなく、他の球団の影響力を排した、合理的なフランチャイズ経営の結果としての成功であり、それは正に地域で唯一の「2時間で行ける距離にある球場」であるからだ、というのが、番組内の発言から得た私の結論です。(注2)

一点、番組で言われていたことについて補足。プロ野球の人気凋落を示すためのグラフで、2005年に入場者数ががくんと下っているのは、前年までは実数での発表を行っていなかったためではないでしょうか。

(注1)1997年から始まったインターリーグについては、例外と考えるべきでしょう。

(注2)一般に言われている球団経営の「成功」の定義については、残念ながら不明です。ある程度強くて、よく観客が入ってるということでしょうか。数十億円規模の利益を生み出しているのならば、成功といえるのでしょうが、プロ野球構造改革推進の会の球界改革最終提言を見るかぎり、利益面から成功しているかどうかの判定をするのは難しそうに思えます。

2007年5月27日日曜日

YouTubeとギター

まずは、以下の動画をご覧ください(要ニコニコ動画アカウント)。



この動画を見て、驚いた点がふたつあります。

まずひとつは、驚きをもって、時代の流れを感じた点。この動画は、要するに、アームダウンした後にハーモニクスポイントを軽く触れることを解説しているものですが、1990年代半ばまでにロックギターをかじった者ならば、解説されなくても、何をどうしているのかくらいは知っていて当然のことでした。やる/やらない、できる/できないを超えて、共有されていた知識のはず。その不存在を知り、私も歳をとったのだと思いました。

もちろん、もう十年以上も前のことですから、驚くには値しないと考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、1990年代に入って以降のアメリカが、トリッキーでテクニカルなハードロックギターのスタイルを徹底的に否定、排除していたにもかかわらず、ここ日本では、それでもそういうスタイルのギタリストがもてはやされていました。イングヴェイマルムスティーンやポールギルバートなどがその代表格でしたが、彼らのキッズへのプレゼンスも、もはや全く無意味になってしまっているのではないかということが、この動画のコメントからわかり、やはり、時間の流れに驚嘆せざるを得ませんでした。

驚いた点のふたつめは、動画共有サイトには、このような使用法もあるのかと気付かされたことです。やはりなんといっても便利極まりない。あえて探そうとはしませんが、例えばYouTubeには、市販されている教則ビデオの類いがアップロードされていることでしょう。自分の求める技術の解説映像にピンポイントでアクセスできるとしたら、これほど教育効果の高いものはないのではないでしょうか。

しかし、一方で懸念もあります。今回ご紹介したもののように、メディア的にキャッチーなものしか視聴されないのではないかというものです。エディヴァンヘイレンのタッピングとか、ブラッドギリスのクリケットアーミングとか、ジェイムズバートンのカントリーロッキンなプレイとか、見てすぐにすごさがわかるものしか見てもらえない可能性は決して低くはないでしょう。人はおもしろいものを見たいのですし、自分のプレイをアップするプレイヤーは、おもしろいと思ってもらえるものをマスターしたいでしょうから。

そう考えると、例えばケニーバレルのブルージーでジャジーなプレイなどは、メディア的に駆逐されて行くようなことはないでしょうか。何がすごいのかがわかりにくいようなものは、メディア的におもしろくありませんものね。私がギター小僧だったころは、とりあえず初心者から上級者までカバーしてくれている雑誌があったので、「いつかはジャズを」みたいな願望を持つことも可能でしたが、今後仮に動画共有サイトが教育の中心になって行くようなことがあると、不健全なゾーニングがなされていくことも考えられます。それはやはり個人の技術の向上という点で、良くないことなのです。

しかし、私がここで書いていることは、悲しい意味で杞憂かもしれません。今のティーンエイジャーは、ギターをやろうとはあまり思わないような気がします。街を歩いていても、ギターやベースを持ち歩いている中高生を見かけることが、随分と稀になりましたから。周りがそのような状況であるにもかかわらず、ギターをやろうと考えるような若者は、初めから意識が高いでしょうから、やはりここで書いていることはあてはまらず、あらゆるメディアを利用して、自らの技術を磨いて行くのかもしれません。

そうであるならば、私の書いていることは、年寄りのボヤキですね。

2007年5月26日土曜日

電脳コイル

電脳コイルというアニメがとても面白い。

未来のお話なのですが、同時に非常に昭和的でもあるという、なんだかすこし不思議な舞台。まだ第2話までしか視聴してませんので、設定のディテールなどは、よく把握しているわけではありません。それでも面白く、観ていると惹きつけられてしまいます。

監督の磯光雄という方は、なにやらとても有名なアニメーターのようで、ネットをまわっていると、この作品の作画についてずいぶんとたくさんの視聴者が期待をしていることがわかります。私は作画について語ることができませんが、それでも、例えばスカートの動きなど、観ていてとても気持ちが良いんですよね。私の好みからいえば、あまり可愛いとは思えない見た目の女の子が、その動きの女の子らしさから、とても可愛く見えます。他の作品を観ているときには得られない、何か特別な、極めて女性的な動きがそこにあるのかもしれません。

毎週観るのがとても楽しみな作品です。DVDも買う気満々です。

2007年5月19日土曜日

ビリービーンはA'sのGM職を辞したのですか。

本日(2007年5月19日)付けの朝日新聞「be Business」で、セイバーメトリクスが紹介されていたのですが、ひとつ気になる記述を見つけました。セイバーメトリクスとも関わりの深いビリービーンの肩書が、「アスレチックスの元GM」となっていましたが、彼はいつ同球団のGM職を辞したのでしょうか。

気になったので、ネットを調べてみたのですが、それを裏づけるような情報源は発見できませんでした(たとえば英語版Wikipediaのビーンの項)。

朝日新聞の記述が間違っているのか、それとも私の調べ方が良くないのか。どちらなんでしょう。

2007年5月16日水曜日

ごあいさつ

世俗を離れ、ぷち革命を。どうぞ、ご贔屓に。

りょうざんぱく りやうざん— 【梁山泊】

中国、山東省西部の梁山のふもとにあった黄河の氾濫原。北宋末、宋江(そうこう)の反乱軍が拠(よ)った地。「水滸伝(すいこでん)」に宋江を首領とする一〇八人の豪傑が集まった所と脚色されて以来、慷慨(こうがい)の士や豪傑の集まりたむろする所の意にいう。

三省堂提供「大辞林 第二版」より

ひょうひょう へうへう 0 【▼飄▼飄】

(ト/タル)[文]形動タリ
(1)風に吹かれてひるがえるさま。
「落花—」「雪—として降り来りしが/八十日間世界一周(忠之助)」
(2)ぶらぶらとあてどもなくさまようさま。
「船は流れのまに—と軽く行くのである/良人の自白(尚江)」
(3)性格・態度が世俗を超越していて、とらえどころがないさま。
「—とした好人物」

三省堂提供「大辞林 第二版」より