2008年4月27日日曜日

批判と賛同の非対称性

ある言説に対してなされた賛同に対して批判をするときに、批判をする側はコンテクストの拡張をしていることに無自覚であることが多いように思われます。ブログの記事を例にとれば、これに対する賛同への批判は、例えば当該ブログオーナーの他の記事においてなされた言説であれば、当該記事とはおよそ無関係な言説であっても、批判の対象とすることにより、当該賛同への批判とするといったような。

全くコンテクストを無視した言説は到底受け入れがたいものでありますが、自らのなす全ての言説に対して無矛盾たれというのは、議論の不経済をもたらすように思われます。内容は問わないから、とにかく誰かと論争(?)をしたい、というのであれば別ですが、やはり何らかの妥当な解決を求めてなされるのが議論であると私は考えますので、議論をするための土台、プラットフォームを全く意識しないで批判をしていても仕方がないと思うのです。

もちろん、何について議論をしているのか、ということを明確に設定するのが議論の開始者の役割でしょうから、その設定が恣意的になされているということについての批判は正当です。しかし、そこにある程度の価値判断が入りこむのは仕方のないことですから、それ自体を批判したいのであれば、また新たな議論を持ちかけるか、余程の技術をもってなされる議論内部からの根本的な批判が必要だと思われます。

それにしても、炎上というのは不経済な現象です。正当な批判があっても、その20倍の量の不当な批判があっては、まさに玉石混淆。ブログのオーナーも読み手も、その全てに目を通せと要求されるのはつらいものがありますね。