2007年11月24日土曜日

「豆腐を豆腐屋で買う」ことを意味のあるものにするために

文化系トークラジオLifeのトークイベントでの内容でちょっと気になったところ(Part4)があったので、少し書いてみたいと思います。

私が気になったのは、森山裕之さんの「豆腐を豆腐屋で買う」という発言。詳しくは当該Podcastを聴いていただきたいのですが、森山さんは、「小文字の政治」を指向していらっしゃるようです。すなわち、大袈裟な政治運動等をしなくても、身近なところから社会を変えていけるだろうとのお考え。

それに賛同するかたちで、柳瀬博一さんが、民主政のプロセスがうまく働いたことがない日本では、消費ドリブンでしか社会は変えられないと、ヤマト運輸の成功例を挙げていらっしゃいました。

私は、この消費ドリブンで社会を変えていくことというのが、素朴な意味で使われているのだとしたら、あまり賢明なことだとは思いません。

斎藤哲也さんは、「豆腐を豆腐屋で買う」ことには、環境運動に通じるものがあるとおっしゃっていました。さらにつっこんだ発言はされませんでしたが、この斎藤さんの発言の含意は、大変意地悪な考え方をすれば、「身の回りのことについて少しだけ、しかも自分に大した不都合もないように行動することで、政治的な活動をした気になって溜飲を下げて、本質的な問題にはタッチしないための逃げ口上になっている場合がある」ということではないでしょうか。

たしかに、消費ドリブンで社会を変えることは全くあり得ないとは言いません。しかし、そこには権力への視線が欠けてはいないでしょうか。庶民からの消費行動を通じた突き上げが一定のパワーになっていったとしても、それが現実化する直前でちゃぶ台をひっくり返すことができるのが権力であり、政治の力だと私は考えています。

柳瀬博一さんは、消費ドリブンで社会が変っていくことは、ヤマト運輸の例には限られず、たとえば中国でも同様なことが起きていると発言され、それにはcharlieも同意されていましたが、未来について考えるのであれば、高度に成長中の中国と、ある種の停滞期にある日本を同列に語ることはできないのではないでしょうか。変革の蓋然性の高さが、中国と日本では異なると思われてなりません。そうだとすると、消費ドリブンな政治変革のプロセスを、アジアの根本原理になり得るとするのは単純に過ぎると思います。

もちろん、私も消費が一種の投票行動であり、「賢い消費者」が結集すれば、社会的なインパクトを行使できるということには賛成します。しかし、ここぞというときに、既存の権力、政治の力によって潰されてしまうことがある以上、「豆腐を豆腐屋で買うこと」を政治的なインパクトのあるものにするためには、やはり「大文字の政治」に関与せざるを得ないのです。

私自身は、およそこの世の全ての出来事は政治的色彩を帯びていると考えていますが、この考えに反対の方もいらっしゃるでしょうし、そうではなくとも、政治になんて無関心な方もいらっしゃるでしょう。無関心でいる自由を侵すことはできませんが、しかし、政治的な活動として「豆腐を豆腐屋で買う」ことを挙げることには、やはり反対の意を表したくなります。先に挙げましたように、単なる逃げ口上に思えてならないからです。

「豆腐を豆腐屋で買う」ことを意味のあるものにするのであれば、政治的な活動は欠かせません。「小文字の政治」は「大文字の政治」があってはじめて、意味のあるものになるのです。

余談:

私の消費者としての行動指針の一つは、某運輸のサービスは極力使わない、というものです。少くとも私の経験上、よろしくないサービスしか提供されたことがないからです。